「管絃祭」を観る
2000年10月28日どんより重い空の、肌寒い土曜。
しかしこの寒さも、パイを作るのには丁度よい寒さ。買っておいた紅玉も使い切らないと傷むので、思い切って久々にアップルパイを作ることにした。
とはいっても、本当に久しぶりなので、生地をどれくらい作れば丁度いいかだいぶ忘れている。案の定、いざパイ皿に敷く時に、少し足りなかった。
仕方ないので、ひもを少し細くのばし、なんとか格好をつけた。
本当なら出来たてを食べるのが最高なのだけど、今日は知り合いのいる劇団(近所にあるのだ)の公演に行く予定で、焼き上がった頃にはそろそろ出なければいけない時間になっていたので、湯気のたっているパイを台所に残し、家をあとにした。
演目は、竹西寛子作「管絃祭」。
広島の旧家の一家が、原爆にあい、敗戦をへて、それぞれに人生を生きていきながらまた、死にゆく人たちを見送る。劇で重要な役割を果たすこの家の長女有紀子は、原爆が落ちた8月6日当時女学生で、その日は学徒動員の工場を、体調を崩し自宅で休んでいた。そして、被爆。
劇を見ながら、大家さんを思い出した。
熊本の出身である大家さんは、父親の「これからは男女ともしっかりとした教育を受けねば」の方針のもと、他の兄弟姉妹とともに、それぞれ親元を離れ、名門と言われる学校へ進んだ。大家さんは広島にある女学校へ行ったのだ。
原爆が落ちた当時、やはり学徒動員で軍需工場へ出ていたという。場所が倉敷であったため、直接の被爆は免れたものの、数日後に市街に入り、残留放射能による被爆をしている。
劇は進む。敗戦後2年を過ぎても、女学校の窓、壁などはガラスも入らず、みな凍える思いで授業を受けたという。大家さんも同じようにそこで凍えたのだろうか?
場所は違うが、私の母の家も原爆にあった。広島の三日後、長崎だった。
当時母は山ひとつ越えて50キロほど離れた町へ疎開していて、その朝、海と山の境に、キノコ雲を見たという。まだ子供だったため、手伝い(これは死体を焼く手伝いだ)に駆り出されることはなく、被爆は免れたものの、爆心地から遠くなかった母の家は文字どおり灰くずになり、留守番をしていた母の叔父はそのまま行方不明になった。
身近な人に重なる物語は胸にせまり、気がつくと涙を流していた。
演劇を見るのはずいぶん久しぶりだったけど、観にいってよかった。どの役者の言葉も、動きも、私の心の中に深く残った。
しかしこの寒さも、パイを作るのには丁度よい寒さ。買っておいた紅玉も使い切らないと傷むので、思い切って久々にアップルパイを作ることにした。
とはいっても、本当に久しぶりなので、生地をどれくらい作れば丁度いいかだいぶ忘れている。案の定、いざパイ皿に敷く時に、少し足りなかった。
仕方ないので、ひもを少し細くのばし、なんとか格好をつけた。
本当なら出来たてを食べるのが最高なのだけど、今日は知り合いのいる劇団(近所にあるのだ)の公演に行く予定で、焼き上がった頃にはそろそろ出なければいけない時間になっていたので、湯気のたっているパイを台所に残し、家をあとにした。
演目は、竹西寛子作「管絃祭」。
広島の旧家の一家が、原爆にあい、敗戦をへて、それぞれに人生を生きていきながらまた、死にゆく人たちを見送る。劇で重要な役割を果たすこの家の長女有紀子は、原爆が落ちた8月6日当時女学生で、その日は学徒動員の工場を、体調を崩し自宅で休んでいた。そして、被爆。
劇を見ながら、大家さんを思い出した。
熊本の出身である大家さんは、父親の「これからは男女ともしっかりとした教育を受けねば」の方針のもと、他の兄弟姉妹とともに、それぞれ親元を離れ、名門と言われる学校へ進んだ。大家さんは広島にある女学校へ行ったのだ。
原爆が落ちた当時、やはり学徒動員で軍需工場へ出ていたという。場所が倉敷であったため、直接の被爆は免れたものの、数日後に市街に入り、残留放射能による被爆をしている。
劇は進む。敗戦後2年を過ぎても、女学校の窓、壁などはガラスも入らず、みな凍える思いで授業を受けたという。大家さんも同じようにそこで凍えたのだろうか?
場所は違うが、私の母の家も原爆にあった。広島の三日後、長崎だった。
当時母は山ひとつ越えて50キロほど離れた町へ疎開していて、その朝、海と山の境に、キノコ雲を見たという。まだ子供だったため、手伝い(これは死体を焼く手伝いだ)に駆り出されることはなく、被爆は免れたものの、爆心地から遠くなかった母の家は文字どおり灰くずになり、留守番をしていた母の叔父はそのまま行方不明になった。
身近な人に重なる物語は胸にせまり、気がつくと涙を流していた。
演劇を見るのはずいぶん久しぶりだったけど、観にいってよかった。どの役者の言葉も、動きも、私の心の中に深く残った。
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